2009.10.19
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十七回

 深井俊彦とたこ八郎


 私のこの「おしゃべり芝居」を、毎回読んでくださり、また不二企画のために書いている「緊縛ナイショ話」も、最近ウェブ・スナイパーというところに書き始めた「濡木痴夢男の猥褻快楽遺書」も早々とお読みいただき、さらに河出書房新社から出していただいた、私の六冊の文庫本もすべて買って読んでくださっている、私にとっては最高にありがたい読者の方から、一つの疑問が寄せられた。
 それは、私がこの「おしゃべり芝居」の第二十一回に書いた「『縄師』を名乗る気持ち」の中の記述についての質問である。
 そこには、一九五八年、私は、美濃村晃、深井俊彦、吉村平吉、田中小実昌、小田桐爽たちと、新宿の某酒場に集まり、雑談を楽しんでいた、とある。そして、そこに「たこ八郎」の顔もあった、と私は書いた。
 だが、たこ八郎(本名・斉藤清作)が、ボクシングジムに通い出したのは一九五八年であり、プロデビューが一九六〇年、日本チャンピオンになったのが一九六二年である。
 それなのに、一九五八年に、私や美濃村晃の酒席にいたというのは、あやまりではないか、というおたずねである。
 まず、この読者の方、Kさんに、私の文章をていねいに読んでくださっていることに感謝したい。
 やはり、私にとっては、最高の読者であります。改めて御礼を申し上げます。
 いくら一生けんめい書いても、こういうパソコン系の機械を媒体としての掲載の場合、私はどうも不安でたまらない。
 不安というのはオーバーだとしても、なんだかたよりなくて仕方がない。
 私はとことん「紙」人間なのだ。
「紙」にしっかり印刷されたものでないと、自分の文章でも信用できない。
 こういうことを言うと、またRマネから、
「機械の上を流れる文字でも、内容のいいものはいいんですよ」
 と叱られそうだが、感覚的に、どうもしっくりこない。
 紙の上に印刷された文章を読んでくださる方のお顔は、長いあいだの経験で想像できるのだけれど、パソコンの表面に浮かぶものを見てくれる人の顔は、どうも私にははっきりと見えてこないのである。
 とくに、ポンポコリンとか、チンチクリンなどという奇妙な名前の人から感想文を送られても、どうも実在の人間とは思えない。
(まあ、濡木痴夢男なんていうのも、あまり正常な神経をもつ人間の名前ではないかもしれませんがね)
 こんどメールをくださったKさんは、筆名だとは思いますが、きちんとした姓名を名乗っておられ、内容的にもまじめなものなので、こういうご質問には、私も黙過できません。気をひきしめてご返事しようと思った次第です。
 というところで、これからがKさんへの、私のお答えです。

 Kさんが疑問をもたれたように、「たこ八郎」が、私たちの前に現われるのは、一九五八年では、やはり、やや早いかもしれません。
 もうすこしあとではないか、というKさんのご指摘は正しいと思います。
 ならば、どうして私がそのように思ってしまったのか、それを書いてみます。
 私の脳は大体きちんとした数字を認識するのが苦手なようにできており、何を書いても記録的な数字は、あいまいになってしまうのです。
 というわけで、私はいつも、記録よりも、記憶に頼って書いています。
 その時代に遭遇した印象的な事柄は書くことはできますが、何年何月何日の何時に、どこそこで、こういうことがあったというふうに、記録的な記述になってくると、もう面倒になってきます。
 もともと私は頭が緻密にできていないのです。算数、数学の類いは、大の苦手です。
 その時代に私がメモしたものを探がし出して調べればよいのですが、私は浅草生まれの浅草育ちで、短気な性分であり、そういう手間のかかる綿密な作業ができないのです。
 ま、しかし、これは弁解です。
 要するに、私の記述が、まちがっていたということです。
 ですが、一九五八年といえば、五十年以上も前のことになります。
 ああ、五十年!
 そうかあ、あれからもう、五十年もたってしまったのかあ!
 感無量であります。
 当時、新宿百人町の居酒屋「たこ部屋」に集まり、わいわいがやがや楽しく飲んで騒いでいた人たちは、私の知るかぎり、いまはもう、一人も生きていないのです。
 みんな死んでしまったのです。
 私一人が、生きのこっている。
 なぜか。
 それは、私があの中では、年がいちばん若かったからです。
 五十年むかしのことを、記憶だけに頼って書きます。
 ですから、記録性はありません。
 記憶だけです。それも、結局は私の主観による、きわめて感傷的な。
 記憶というものは悲しい。
 みんな死んでしまったので、悲しい。
 記録は、厳然たる事実なので悲しくない。
 死亡年月日と享年だけを冷静に記されているだけなので、それほどの悲しみはない。
 今回この「おしゃべり芝居」には、一九四六年の私を書こうと思っていたのだが、急にKさんへの返事が書きたくなった。
 で、一九四六年の鶴亀劇場時代から、一足飛びに、新宿「たこ部屋」時代へと、話は飛びます。
 記録性を無視して、記憶だけを断片的に、感傷的に書きます。

「たこ部屋」という店の名前は、「たこ八郎」が経営していたから「たこ部屋」といい、彼もそこに住んでいたのです。
 住んでいた、というより、棲んでいたと書くほうがぴったりする。
 新宿駅から歩いて、新宿コマ(ああこの劇場ももうないのか)の前を通り、通称職安通りを渡った向かい側の細い路地に入ると、連れ込み旅館(いまでいうところのラブホテル)街になる。
 現在のように明かるく威張ったキンキン、キラキラ、お伽話のお城みたいな建物のラブホテルではなく、いかにも暗く湿っぽく、世間の目を怖れるかのようにひっそりと、控え目に、それらの旅館はあった。
 その細い路地の左側に、ポツンと「たこ部屋」はあった。
 ぎっしりと詰め込んでも、客が十人入れるか、入れないかの、小さな小さな、なんの飾りもない飲み屋だった。
 じつは、そこは井上荘という木造二階建てのアパートの一階なのである。そして、たこ八郎はその二階の四畳半の部屋で寝起きしていたのだ。
 たこ八郎が、いつ、どんないきさつで、「たこ部屋」を経営するようになったのか、私は知らない。
 私が初めてたこ八郎と会い、口をきいたとき、彼は店で客に出すための煮込みをつくっていた。
(酒と煮込みしかない店だった。その煮込みは結構うまかった)
 彼と実際に会う前、彼の名前を知ったのは、じつは、美濃村晃の口からである。
「先生、カッパの清作って知ってますか?」
 と、美濃村晃は私に言った。
 私は当時、雑誌「裏窓」の寄稿家であり、彼は編集者であった。
 だから習慣的に、儀礼的に、私のことを「先生」と呼ぶ。そのうちに、私もいつのまにか「裏窓」の編集部に入り、すると彼は私のことを「フーさん」と呼ぶようになった。
 当時私は「藤見郁」というペンネームで書くことが多かったので「フーさん」と呼ぶのだ。
 ついでにいえば、この時代、濡木痴夢男という名前は、まだ生まれていない。これは、濡木痴夢男が現われる、ずっと以前の話である。
「なんですか、そのカッパの清作って?」
 と、私はきき返した。
 美濃村晃は、プロボクシングのファンであり、斉藤清作のことをよく知っていた。
「なぐられてもなぐられても前へ出ていくんですよ、おもしろいボクサーでしたよ。こんどそのカッパの清作がやっている店へご案内しますよ」
 その髪型と容貌からカッパの清作と呼ばれ、いまは引退しているということを、彼は私に教えてくれた。
 また或る日、いつものように「裏窓」編集部へ、書き上げたばかりの原稿を届けに行った私に、
「ぜひご紹介したい人物がいるんですよ。これからご一緒しましょう。新宿フランス座の支配人であり、演出家であり、作家の先生です」
 と言った。
 この日が、昭和なん年の、なん月、なん日だったのか、記録してないし、おぼえていないので、わからない。
 新宿フランス座というのは、いまの伊勢丹別館の裏あたりにあったストリップ劇場である。
 十合(そごう)デパートという建物が当時あって、それに隣接していたような気がする。
 あるいは、十合デパートが撤退したあとの建物にフランス座ができたのか、私にはわからない。そのフランス座も、ずいぶん前になくなっている。
 とにかく五十年前の古い話である。
(旗一兵氏の「喜劇人回り舞台」か、あるいは淀橋太郎氏の「ザコ寝の人生」には、このへんのことが書かれているかもしれない)
 そのストリップ劇場の、建物の二階の外側についている裏口に、下の道路から上がる鉄製の階段がついていた。
 外から鉄の階段を上がって、劇場の楽屋へ入るような形になっている。
 その楽屋口の外側の手すりにつかまって、飄然と立っている人物を遠くから見て、美濃村晃は私に言った。
「あの人が、深井俊彦ですよ。ね、おもしろそうな人でしょ」
 美濃村晃と私は、ヌード劇場の楽屋口へ入るその階段を上がった。
 これが、私が終生忘れることのできない深井俊彦という大人物と出会ったときの記憶である。
 このとき、深井俊彦は、新宿百人町の井上荘、つまり「たこ部屋」の二階のアパートの一室に寝起きしていた。
 そこは、たこ八郎のとなりの部屋である。
 ボクサーをやめてから、たこ八郎はコメディアンを志望し、深井俊彦は、浅草で有名コメディアンを多く売り出したストリップ界の大御所であった。
 私が深井俊彦と知り合ったとき、たこ八郎は深井俊彦を「師匠」と呼んで師事していた。
 深井俊彦と美濃村晃が接近し、緊密な関係になったのは、はじめはストリップ嬢を自由にできる深井俊彦から「裏窓」のモデルを提供してもらうためだった。
 が、おたがいに気脈通じるものがあり、やがて人間的な、深いおもしろいつきあいをするようになる。
(私に至っては、その数年後、深井俊彦一座の座付き作者となって、東海道の旅興行までついていくことになる)
 交友の広いストリップ業界のボスである深井俊彦と、これまた、やたらに交友の広い編集者兼画家兼作家である美濃村晃が「たこ部屋」で顔を合わせるとき、それぞれの仕事関係、仲間たちが、ごくしぜんに集まってくる。
 華やかな顔ぶれであった。
 その席に、たこ八郎が居合わせるのは、当然であった。
 なぜなら、たこ八郎はその店の経営者であり、客に酒を運び、煮込みの皿を運ぶ役の人間だったからである、
 だが、そういう時代が、昭和なん年から、なん年までつづいたのか、私にはいま、それをはっきり書くことができない。
 たこ八郎との淡く短い、しかし印象深かった交友の記録を、思い出すことだけである。
 で、つぎは、その思い出を断片的に書いてみようと思う。

つづく

★以下Kさんからお寄せいただいたお便りをご本人の承諾を得て転載させていただきます。

Kさんからのメール
2009年10月14日 09:48
濡木先生

いつも「濡木痴夢男のおしゃべり芝居」「緊縛ナイショ話」そ して、最近始まった「濡木痴夢男の猥褻快楽遺書」を楽しみに 読ませていただいております。

濡木先生の河出書房新社から出版されている6冊の文庫本も全 て読まさせていただきました。「緊縛ナイショ話」にも過去に 何度かコメントを書き込みさせていただきました。

自分ではそれなりの変態でマニアだとは思っているのですが、 「マニアの顔をして近づいてくる偽物のマニアが大嫌いな」濡 木先生にメールを出すのはとても緊張してしまいます。「あな たは変態ではないな〜。偽物だよ。」なんて言われてしまいそ うで。

「濡木痴夢男のおしゃべり芝居」について、重箱の隅をつつく ようなことなのですが。質問があります。もし可能でしたら、 お暇な時にお教えいただければと思います。時々、資料館にも 行っていますので、その時にコメントいただいても嬉しいです (濡木先生を目にしても、恐れ多くて質問などできません)。

質問なのですが、濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第二十一回「 『縄師』を名乗る気持ち」の中で、先生は『1958年』の新 宿の酒場での思い出を書いていらっしゃいます。須磨氏が「私は、 縄師をやっています」と自己紹介された思い出です。

その場に、田中小実昌、深井俊彦、吉村平吉、たこ八郎が同席 されていたとあります。

私、趣味でSMの歴史を整理しているのですが、この「たこ八郎 」の名前を見て少し驚きました。60年代の半ば以降に、SM関係 に名前が出ていたのは把握していたのですが、1958年という早 い段階から須磨氏や濡木先生と交流があったというのは驚きで した。

ただ、最近、たこ八郎の足取りを整理しているのですが、1958 年というと、たこ八郎こと斎藤清作が、高校を卒業して、仙台 から東京に出てきた18歳の時です。映画のフィルムを映画館か ら映画館へ運ぶ仕事をしており、まだボクシングジムにも入会 していません。芸能界にあこがれは持っていたようですが、新 宿で田中小実昌などに交じってお酒を飲むのには、少し早すぎ るのでは、と思います。たこ八郎がボクシングジムに通い出す のが、1959年で、プロデビューが1960年で、日本チャンプにな るのが1962です。なので、

* この1958年というのが、もう少し後の、1960年ぐらいでは ないか?
* 1958年のこの席には「たこ八郎」は同席していなかったの ではないか?

のどちらかでないかと思うのですが、いかがでしょうか?

細かいところをごちゃごちゃ申し、大変恐縮なのですが、濡木 先生の著作は非常の歴史資料的価値が高いので、この部分も、 もし先生の勘違いがあるのでしたら、修正していただけると、SM の歴史の記録として重要なのではと思っています。

大変失礼なメールですが、どうかお許し下さい。

K (Rマネ註:ご署名をアルファベット表記にさせていただきました)

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★以下は、濡木痴夢男からKさんへのお返事となります。
 上記「おしゃべり芝居 第九十七回」執筆前に書かれ、私Rを介して、Kさんへの私信として送ら
 れました。ご丁寧なご質問には、このように濡木痴夢男からお返事を差し上げます。なお、いた
 だいたお便りの「おしゃべり芝居」への掲載可否は必ず事前にお伺いいたしております。非公開
 を希望される場合は掲載いたしませんので、どうぞお気軽にご質問をお寄せください。

濡木痴夢男からのお返事
2009年10月15日 11:09
K様
濡木痴夢男より

 私の「おしゃべり芝居」「緊縛ナイショ話」さらに最近始まったばかりの「猥褻快楽遺書」まで、早々とお読みくださって、こんなにうれしいことはありません。
 さらにはまた、河出書房新社から出した6冊の文庫本もお読みいただいているとのこと、感謝にたえません。かさねて御礼を申し上げます。
 インターネットに寄せられた私へのおたよりの中で、内容のあるものは、Rマネが選んで、きちんとプリントして、読ませてくれます。
 このたびの「たこ八郎」に関してのKさんのご指摘については、これはしっかりご返事しないといけないと思い、こうやって、私信として書かせていただいた次第です。
(もちろん、これも私の手描きの原稿を、Rマネが、パソコン用に打ちなおしてくれているものです)
 お送りいただいたおたよりを中心に、風俗資料館の中原館長と、きのう(2009.10.14)は、なんと3時間余も、思い出話ふうにいろいろ楽しく語り合い、充実した時間をすごしました。
(毎度のことですが、私のおしゃべりで館長の仕事をずいぶん邪魔したことになりました)
 たこ八郎とその周辺の人間像にまで、話はとめどなくひろがり、終わらなくなってしまったのです。
 当時、たこ八郎は「たこ部屋」という小さな居酒屋をまかされていて(店長1人だけで店員はいない小さな店)そこに、私たちは集まっていたのです。
 当時、たこ八郎が師匠と呼んでいたのが深井俊彦で、その友人が吉村平吉であり、須磨利之で、その須磨利之のお伴が私(濡木痴夢男はまだ誕生していなかった時代です)で、といったぐあいに、人間関係はぐんぐんひろがり、とめどがありません。
 深井俊彦は巡業先で出来た若く美しい愛人(広江久美)と「たこ部屋」の2階に住み、そのすぐとなりに、たこ八郎が寝起きしていたのです。中田雅久と田中小実昌はそもそもは編集者と作家という関係であり、須磨利之はその中田雅久のとなりに机を置き、「裏窓」の編集を始めたのです。
 やがて私は、深井俊彦ひきいる旅芝居の座付き作家となり、旅から旅へ巡業することになります。その一座に田中小実昌が役者として入ってきて……というふうに、話はどんどんふくらんできます。そんな私たちの交友の中に、たこ八郎はいつも脇役として、そばにくっついているのでした。居酒屋の店主ですから、つねに脇役の位置です。要するにみんな仲良く楽しくわいわいやっていた時代です。
 貴殿がおたずねの件にしても、「おしゃべり芝居」の中で書くことになると思います。ありがとうございました。またお便りください。

2009.10.15 11:09

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