濡木先生
いつも「濡木痴夢男のおしゃべり芝居」「緊縛ナイショ話」そ
して、最近始まった「濡木痴夢男の猥褻快楽遺書」を楽しみに
読ませていただいております。
濡木先生の河出書房新社から出版されている6冊の文庫本も全
て読まさせていただきました。「緊縛ナイショ話」にも過去に
何度かコメントを書き込みさせていただきました。
自分ではそれなりの変態でマニアだとは思っているのですが、
「マニアの顔をして近づいてくる偽物のマニアが大嫌いな」濡
木先生にメールを出すのはとても緊張してしまいます。「あな
たは変態ではないな〜。偽物だよ。」なんて言われてしまいそ
うで。
「濡木痴夢男のおしゃべり芝居」について、重箱の隅をつつく
ようなことなのですが。質問があります。もし可能でしたら、
お暇な時にお教えいただければと思います。時々、資料館にも
行っていますので、その時にコメントいただいても嬉しいです
(濡木先生を目にしても、恐れ多くて質問などできません)。
質問なのですが、濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第二十一回「
『縄師』を名乗る気持ち」の中で、先生は『1958年』の新
宿の酒場での思い出を書いていらっしゃいます。須磨氏が「私は、
縄師をやっています」と自己紹介された思い出です。
その場に、田中小実昌、深井俊彦、吉村平吉、たこ八郎が同席
されていたとあります。
私、趣味でSMの歴史を整理しているのですが、この「たこ八郎
」の名前を見て少し驚きました。60年代の半ば以降に、SM関係
に名前が出ていたのは把握していたのですが、1958年という早
い段階から須磨氏や濡木先生と交流があったというのは驚きで
した。
ただ、最近、たこ八郎の足取りを整理しているのですが、1958
年というと、たこ八郎こと斎藤清作が、高校を卒業して、仙台
から東京に出てきた18歳の時です。映画のフィルムを映画館か
ら映画館へ運ぶ仕事をしており、まだボクシングジムにも入会
していません。芸能界にあこがれは持っていたようですが、新
宿で田中小実昌などに交じってお酒を飲むのには、少し早すぎ
るのでは、と思います。たこ八郎がボクシングジムに通い出す
のが、1959年で、プロデビューが1960年で、日本チャンプにな
るのが1962です。なので、
* この1958年というのが、もう少し後の、1960年ぐらいでは
ないか?
* 1958年のこの席には「たこ八郎」は同席していなかったの
ではないか?
のどちらかでないかと思うのですが、いかがでしょうか?
細かいところをごちゃごちゃ申し、大変恐縮なのですが、濡木
先生の著作は非常の歴史資料的価値が高いので、この部分も、
もし先生の勘違いがあるのでしたら、修正していただけると、SM
の歴史の記録として重要なのではと思っています。
大変失礼なメールですが、どうかお許し下さい。
K (Rマネ註:ご署名をアルファベット表記にさせていただきました)
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