2009.10.21
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十八回

 たこ部屋のこと


 たこ八郎は私のことを「先生」と呼んだ。
 それは「裏窓」編集長の美濃村晃が、同誌の常連作家である私のことを「先生」と呼ぶのを、そばにいて聞いているからであった。
 美濃村晃は、深井俊彦のことも「先生」と呼んでいた。
 当時「裏窓」にはまだ書かなかったが、深井俊彦は演劇専門誌に戯曲を発表し、業界では知られた演出家であり、戦後の軽演劇界、ストリップ劇場の現場で生きてきた人物なので、私とちがって「先生」と呼ばれるのは当然である。
(一九七四年に京都・白川書院から発行された、小沢昭一対談集『清談・性談・聖談そして雑談』の中に深井俊彦が登場している。この対談集には、他に井上ひさし、戸板康二、尾崎宏二、吉行淳之介、田中小実昌などの名前が見える。重厚で内容の濃い本である。ここに述べられている生き生きとした記録は、後世にのこる確固たる大衆文化史の一端を担っている。しかし、三十数年前に発表された文章を読もうとすれば、こうやって手に取って、すぐにひろげることができる。いま書かれている、このパソコン文章を、三十数年後に読もうとしたとき、こうやって、この本のようにすぐパッと取り出して読めるものなのだろうか。機械オンチの私にはまったくわからない。Rマネよ、おしえてください)
 深井俊彦のほうは、美濃村晃のことを「須磨さん」と呼んでいた。
 美濃村晃の本名が、須磨利之だからである。
 たこ八郎は深井俊彦のことを当然「師匠」と呼び、その深井と対等の立場でしゃべり合っている美濃村晃のことも、なんだか美濃村の正体がよくわからないなりに「師匠」と呼んでいた。
 たとえば、或る夜、私がひと足早く「たこ部屋」へついて、店のガラス戸をがらがらと横に引くと、カウンターの内側の大きな鍋でぐつぐつと煮込みをつくっているたこ八郎が、ぺこりと頭を下げて、
「あ、先生、いらっしゃい。きょう、師匠は?」
 というふうに。
 このときの師匠は、もちろん美濃村である。
「師匠はあとからくるよ。偉い先生方をいっぱい連れてやってくるよ。煮込み、いっぱいつくっておきなよ」
 と、私は言う。
 美濃村が、「裏窓」に寄稿してもらっている作家、画家と、この「たこ部屋」で会うことを約束しているのだった。
「裏窓」といっても、それがどんな雑誌なのか、たこ八郎には理解できない。
 のちに北野竜一というペンネームで「裏窓」や「サスペンス・マガジン」に小説を書くようになる深井俊彦。その弟子であり、美濃村晃や私と多少の交際があったとしても、たこ八郎は、いわゆる「SM」とは無縁だった。
 そのことだけは、はっきりと書いておく。
「SM」という言葉はわからなくても、しかし彼は「変態」という言葉は知っていた。
 それは深井が、美濃村や私のことを人にしゃべるとき、ニヤニヤ楽しそうに笑いながら、親しみをこめて、やさしく「へんたいの人たち」という言い方をするからである。
 たとえば、私と美濃村が「たこ部屋」へ顔を出すと、待っていた深井は、あいさつの代わりに、
「や、へんたい二人組が現われたぞ。うふふふ……」
 と、うれしそうにのどのおくで笑ってむかえる。そして、ちょっと声を張りあげ、
「さ、それじゃ、おれもへんたいになろうかな」
 と言って、さらに親密感をこめて目を細め、うれしそうにまた笑う。
 たこ八郎はそばにいても、なんのことやらわからず、片方斜視の目をあらぬ方に向け、首を傾げて、
「へへへへへ……」
 と笑うだけなのだった。
 居酒屋の「たこ部屋」は、井上荘という二階建ての木造アパートの、階下の細い路地に面したところにのれんを下げていたが、この井上荘の所有者で、ママと呼ばれる粋な女性は、浅草に住む作家・吉村平吉と古い知り合いなのだった。
 その吉村平吉と深井俊彦が、戦後の浅草の軽演劇やストリップの世界での古い仕事仲間であり、親友なのである。
 井上荘のママは浅草を舞台にした小説「如何なる星の下に」で有名な作家・高見順にゆかりのある人で、そのへんの事情も吉村平吉はよく知っていて、私にこまかいことまで語ってくれた。
 つまり、こんなぐあいに、みんな何かしらの関係がある。横にもタテにも斜めにもつながっている人間が、一夜、いっぺんに「たこ部屋」で顔を合わせたりすると、酒も話もはずんで徹夜になってしまう。
 深井俊彦が支配人をしている劇場の踊り子が、舞台を終えてやってくる。
 客に飲まされた酒で、たこ八郎は酔っぱらって赤い顔をして、店の奥の二畳ほどの小上がりで、だらしなく眠りこんでいる。
 踊り子はそれを見て、
「しょうがないわねえ、たこちゃん、ほんとにだらしがないんだから。今夜は私がお店みててやるから、そんなところでオネショしないでよ」
 言いながら、客に酒を出したり、煮込みを皿に盛ったりして、客にサービスをしはじめるのだ。
 その踊り子を眺めながら美濃村晃が、
「お嬢さん、きれいですねえ。こんど、うちの雑誌のモデルをやってくれませんか」
 などと声をかけるのだ。
 その時代、厳密にいえば「裏窓」には、まだモデルを必要とする写真ページはない。
「裏窓」はまだそのころは、大衆小説雑誌の仮面をかぶっていた。
「わっ、ショクナイ? うれしいわ!」
 と、踊り子はよろこんで、深井俊彦にむかい、
「先生、ショクナイやっていい?」
 媚びた笑顔できく。
「そりゃかまわんがな、その人のモデルになると、お前、へんたいになるぞ」
 と深井はニヤニヤ笑いながら楽しそうに言う。
「わあ、おもしろそう。へんたいって、どんなへんたい?」
 ショクナイというのは、内職のことである。内職をひっくり返してショクナイ。
 いまでいえばアルバイト。舞台以外の仕事をやることである。踊り子は給料制だった。
 こんなふうに常連の客が、店の者になってあとからきた客にサービスしたりする。
 客もこういうしまりのない雰囲気を楽しむ人間ばかりになってくる。
 店の近くには連れ込み旅館が軒を並べている。男を誘ってはそういう場所で仲良くする女性たちも、たこ部屋へ顔を出す。
 人のいいたこ八郎は、そういう女性たちに男を仲介したりする。
 あれほどだれにも好かれ、愛された人間を私は他に知らない。
 いつのまにか、たこ八郎は人気コメディアンの由利徹のところへ出入りするようになり、弟子ということになっている。
 由利徹のおかげでテレビにも出られるようになり、チョイ役だが映画にも出演するようになる。
 はじめのうちは、ストリップ劇場で踊りの合間にやるコント芸人をめざしていたらしいのだが、あれはそんなにかんたんにできる芸ではない。訥弁のたこ八郎にはできない。
 たしかなキャラクターを持ち、よほど腕のある芸人でないと、あの種の舞台では通用しない。
 こうやって書いているうちに思い出した。
 当時、深井俊彦が関係していた劇場には、その後大阪へ行ってテレビの人気者になった佐々十郎とか、茶川一郎なんかもいたのだ。
「たこ部屋」が繁昌していた時代は、昭和なん年から、なん年ごろまでだったのか。
 正確に記録してないので、私にはわからない。
 私には、かなりあいまいな記憶しかのこっていない。のこっているのは、やはり単なる「印象」でしかない。
 私と美濃村晃が「たこ部屋」へ行ったのは、あくまでも深井俊彦に会うためであった。そこにたまたま、たこ八郎がいた、ということである。
 だが、「たこ部屋」以外のところでも、私は偶然に、たこ八郎と何度か出会っている。
 そういうときは、たいてい私一人で街を歩いている。
 そして、そんな私に、たこ八郎はいきなり声をかけるのである。
 たとえば、新宿の花園神社での酉の市の夜、熊手売りとテキヤの店が色とりどりに密集して並び、いらっしゃい、いらっしゃいと声をかける商売の中の一つに、たこ八郎もいて客を呼んでいる。
 雑踏の中の私をみつけて、
「あ、先生、お汁粉、のんでってよ、サービスすっからよ」
 と、いささか強引に私の足をとめる。
 大きな黒い鉄の鍋の底に、溶けかかった小豆の粒が浮いているのが見える。
 彼はそこへヤカンの湯をそそぐと、がらがらかき回して、プラスチックの碗の中にそのうすめた汁粉を入れ、
「へい、おまちどうさま!」
 と言って私にさしだすのである。
 またあるときは、新宿・紀伊国屋アドホックの前に、なんと台の上に安物の瀬戸物茶碗を並べて売っている。
 むこうからみつけて、
「あ、先生、なにか一つ買ってよ、なんでもいいから一つ買って!」
 と叫ぶ。
 百五十センチほどの小柄な体格で、いつもぼんやり遠くを眺めているような斜視をしており、なんとも隙だらけの風貌が、好人物の印象を人に与えるのだが、もとボクサーであり、相手を確認する視力には、鋭いものがあったのだろう。
 仕方がないので、私は値段の安い小さな湯のみ茶碗を一つ買った。
 そういうときのたこ八郎は、あの界隈のいわゆるテキヤの手伝いをしていたのだろう。
「たこ部屋」のほうの商売はどうなっているのだろうと思うのだが、それについては聞いてもいないし、記録してないので何もわからない。
 浅草の「花やしき」の前で声をかけられたことがあった。
 その当時、まだあのあたりには空き地があって、生きたニワトリを頭からむしゃむしゃ食べる蛇娘とか、全身熊の毛におおわれた美人熊女などの見世物の掛け小屋があったのだ。
(ああ、なんと古い、なつかしい話なんだろう。でも本当に、あのころは浅草にそういう見世物のなごりがあったのだ!)
 そのテント張りの見世物小屋興行のあとに上演されている「芝居」の入り口に立って、たこ八郎は「呼び込み」をやっていたのだ。
 このときは私のほうから彼に気づき、近寄って行った。彼はすぐに私をみとめた。
「あ、先生、見てってくださいよ、入ってくださいよ、おれ、ちょんまげつけて役者やってんだよ。セリフもあるんだから。先生、見てってよ!」
 誘われて私は入った。
 内部は、当時流行したテント劇場になっていて、たしかに芝居が始まった。
 いま思うと、それは「はみだし劇場」と名乗る劇団の前衛的な芝居ではなかったかと推察できるのだが、これもはっきり記録してないので自信はない。
 たこ八郎はちょんまげをつけて登場し、わあわあ怒鳴りながら刀をふり回していた。
 ラストシーンがおもしろく、アッと言わせた。それは背景の布幕が取りはずされると、セットではない浅草の街が、客席から直接見え、雨がザアザア降っていた。
 その雨は、小屋の屋根の上に、扮装したままの役者たちがよじのぼって、ホースやバケツで水をまいているのだった。
「花やしき通り」を歩いている人々も、びっくりして立ちどまり、その人工雨を見ている。テント小屋のいちばん高いところにたこ八郎がいて、なにかわめきながら夢中でバケツをふり回していた。

つづく

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