2007.11.12
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第十九回

 落花さんの落差


 この「おしゃべり芝居」の18回の「モデルはマニアではないのか」について、落花さんからFAXで「抗議」の手紙がきた。
 (いまは、手紙というよりもメールといったほうがいいのだろうか。アナログ人間の私には、よくわからない。とにかくパソコンで打った文字が、FAXで送られてきた。私は文筆業者なので、書いた原稿を送るために、電話のついたFAXだけは、かろうじて備えている。このFAXの機械の調子が悪く、いつもRマネージャーに迷惑をかけている)
 いや、べつに「抗議」というほどのものではない。
 会話のなかでのおたがいの意見や、私の受け取り方の、わずかな差に対する彼女の反論である。
 落花さんからFAXできたそのメールを、つぎに紹介する。
 途中で、私つまり濡木の注解とか感想を入れるかもしれない。そのときはカッコつきで入れる。読者には多少うるさいかもしれないが、ご諒承ください。
 では、落花さんからの手紙。
「(前略)…続いて私が『落花さん』の考えとは、少し違うと思っているところを書いてみます」
 (早くもここで注解を入れる。彼女の手紙のなかの『私』は落花さん自身で、『落花さん』と二重カギカッコで書いているところは、私つまり濡木が書いた=描写した=『落花さん』である。ああ、ややこしい。読者にわかってもらえるだろうか。私が書いた『落花さん』を読んで、実際の落花さんが「私の言ったこととは違う」と書いているのだ。つまり、私(濡木)は誤解している、というのだ)
「まず、おしゃべり芝居の17回の『ひどい写真をみて、それから……』のなかで、落花さんのいう『モデルさんはお金をもらっているんだから、それらしい表情をして、スポンサーの期待にこたえなければいけない』というセリフについてです。私はこのような言葉で、『モデル』という職業を決めつける『落花さん』のことが、あまり好きではありません」
 (濡木注。濡木の書いた『落花さん』のことを、好きではありません、と落花さんは言っている。ということは、私の書いている『落花さん』は、落花さん自身ではない、本当の落花さんとは違う、ということである。やっぱりややこしいなあ、これは。読んでいて、わかってもらえるかなあ。でも、ここでやめるわけにはいかない。つづけよう)
「私にとってモデルさんは、もっともっと未知な感覚のものですし、私の言うことは全てが『想像』です。私自身の個人的な『感想』でしかなく、『――でなければならない』という決定論を述べる気はありません。内容も、私が駅前の酒場で、先生にお話したのは、もう少し違うニュアンスのつもりでした」
 (濡木注。駅前の酒場で、彼女が私に話したというその内容を、私はほとんど忘れている。ゴメンナサイ。彼女と、コーヒーショップとか、レストランとか、酒場でしゃべり合う機会は多い。内容はすべて「SM」に関したことばかりである。大体彼女が積極的に、問題点の深いところまで掘り下げて、熱っぽく質問してくる。それに私が答えるという形だが、じつをいうと、私はそのときの彼女の、生き生きとした、悩ましい、魅力的な表情にボーッと見惚れていて、内容のことはあまりおぼえていないのです。ゴメン!)
「私は確かに『モデルさんが“かわいそう”だとは思わない』と言いましたが、その理由は、グラビアというものは、カメラマンと編集者だけでなく、モデルさんにも、表現者としての対等な力がある、と思っていることにあります。
 先生は『モデルにはそんな力はない』とおっしゃいましたが、私にはどうしても、敢えて職業として自らモデルを選んだなりの、何かしら『人に見せるために表現をする』プライドを持っていると『思いたい』気持ちがあります。
 机上の空論かもしれませんが、私はグラビアというのは『作品』であり、『SMを表現できる感性』を持った皆で作り上げるものだと思ってしまうのです。実際の撮影現場が、そのような場であるかどうかは、私にはわかりませんが、私は『そうであってほしい』のです。そして、そうであるならば、モデルさんだけを『かわいそう』だと同情することは、イコール、一人だけ作り手=表現者としての責任から逃れ、つまりは対等な力を持っていない、一段下に位置づけられてしまう気がして、表現のプロに対して失礼な気がするのです。
 以前、先生は私に『Uさん』というモデルさんのことを、お手紙に書いてくださったことがあります。杉浦先生の撮影で出会ったモデルさんで、本当に縛られるのが好きな、とても良いモデルさんだったと、先生は書かれています。
 私はそのお手紙の返事として、私なりに『モデルさんの羞恥心』についてあれこれ想像して書きました。半年ほど前に書いたお手紙ですが、いま私が思っていることと、ほぼ同じことを書いています。
 電子文字のお手紙でしたので、そっくりそのまま、データがパソコンに残っています。ちょっと(とはいえ、随分長くなりますが)その文章を引用してみます。」

「――(前略)……モデルさんの羞恥心のお話は、いろいろと考えさせられました。私は想像するしかありませんが、たとえ服を着ていても、足をピッタリ閉じていても、人前で縛られて写真に撮られるというお仕事は、中途半端な羞恥心を持っていたら出来ないのではないか、と思います。モデルという責任ある『仕事』として縛られるのならば、その感情を、表現のレベルにまで引き上げてこそ、プロであり、それが自らの誇りにも繋がるような気がします(綺麗ごとかもしれませんが、もし私なら、そうでありたい、そうでなければ出来ない、と思います)。
 ただ、仕事には、その人の生きてきた全てが滲み出るはずだとも思います。真実その方が持つ羞恥心あってこその表現になるのだと思います。羞恥心が単なる『嘘』としての演技ではなく、知性に裏打ちされた表現として昇華できるかは、その方自身の生き方と、想像力にかかっているのではないかと思いました。先生がお手紙に書かれていた『被虐女性の表面だけではなく心の奥まで表現する』のは、カメラマンだけでなくモデル自身でもあると思います。
 最近ようやく杉浦先生のホームページの会員になり、そこで配信されている撮影風景の動画(短いムービーです)を見てみました。批判でも否定でも何でもなく、単純に、私にはモデルは無理だと思いました。とてもとても無理です。盗撮されたのでない限り、やはり緊縛写真は『作品』であり、モデルは『仕事』だと思いました。モデルという仕事は凄いものだと思いました。
 あんな白熱した現場で、自分のプライベートな感情そのままに、いつまでも緊張して、もたもた、おろおろしていたら、皆に迷惑がかかると思いました。その時その世界に没頭するためには、羞恥心を凌駕するほどの熱意と理性と知性がなければ、到底できない仕事だと感じました。」
 (濡木注。このあたりの落花さんの文章は、知的な名文である。とくに「羞恥心を凌駕するほどの――」という表現力はすぐれている。私もそのとおりだと思う。ただし、現実のモデル嬢たちの場合、理性とか知性によって羞恥心を凌駕させているのではない。言ってみれば、私たちの撮影現場において、彼女たちの羞恥心を凌駕させているのは、忍耐力、そして、わかりやすく言ってしまえば、やはりM性であろう。M性と忍耐力がなければ、延々八時間にわたる杉浦カメラマンの撮影のモデルをつとめることはできない。極言すれば、知性とか理性があっては、とても杉浦カメラマンのモデルはつとまらない。誤解されると困るのだが、これは杉浦カメラマンの現場へやってくるモデル嬢たちへの、私の心からの賞讃の言葉である。彼女たちの心身の強靭さに、私は毎回感嘆し、驚嘆している。落花さんが「私には到底できない仕事」と書くのも当然である。私はいつも心のなかで「スゴイ!」と、うなっている。この現場では、私が声を出すことを禁じられている。どうやら私はこの現場にはいないことになっているらしい。動画のなかに私の声が入ってしまうのはいけないことらしい。だから私はいつも心のなかで「凄い!」と叫んでいる。私は、人にいうのも恥ずかしい位、この種の現場を経験してきた。ありとあらゆる情況のもとで、撮影のお手伝いをしてきた。その私に「凄い!」と言わせるほどの、この一年間の杉浦カメラマンの仕事ぶりである。)
「強制されたわけでもなく、自らモデルという仕事を選んだのならば、想像力を駆使して、自らが目指す美学を表現して欲しいと思いました。それがいわゆるM女性であればなおさら、哀れで、もの悲しい被虐の世界に魅かれる自らの誇れる感覚を、生かしきって欲しいと思いました。仕事だからといって、羞恥心を捨てる必要は、全くないと思います。逆に、仕事ならばなおさら強く意識せざるを得ないような気がしました。その上で、縄の世界に没頭できる感性をもったモデルさんは、もう素晴らしい資質を持っているのだと感じました。それが露出趣味だとしても、それはそれで、絶対に強みになる幸せな資質と思いました。」
 (濡木注。そうなのです。そうなんですよ、落花さん。仕事だからといって、羞恥心をすてる必要は、全くないのです。ここで急に、今回のこの文章のトーンが変わって申しわけないのだけど、落花さん、私があなたの、みずみずしいきれいな姿体、清潔感に充ちた、なめらかな皮膚の質感、骨と肉の柔軟な感触にひかれるのはもちろんだけど、究極のところ、やはり私は、つまり濡木痴夢男は、落花さんのもつ「羞恥心」に、ひかれているのです。私にとっては「羞恥心」のしぜんな表現こそが、被虐エロティシズムの最大の要素なのですよ。
 どんな美女でも、羞恥心の持ち合わせがなかったら、私にとっては、道端に落ちている雨にぬれた段ボールの箱みたいな存在でしかないのです。ぬれて腐った段ボールの箱にはエロティシズムはないのです。
 ぬれて腐った段ボールの箱にエロティシズムを抱く人がいたら、それはそれで凄いと思いますけど。
 この「おしゃべり芝居」を読んでくださり、いつもいい感想を寄せてくださる「みか鈴」さんが、またまた適切な表現をしてくれました。
「……落差……SMの楽しさは、落差でしょうね。美香は、ハードな吊りや蝋燭、鞭等の凄いプレイの自慢報告より、落花さんのこんな落差のある反応の方が数倍感じますわね。この感覚は余り判って貰えない事が多いのです。つまるところ、美香も濡木先生と同様の少数派の変態なのですわ」
 そうかァ……。
 私は「少数派の変態」なのか。感無量。たしかに、これほどまでに「羞恥心」にこだわる私は、「少数派」なのかもしれない。
 そしてまた「みか鈴」さんの鋭い分析力と表現力「この展開は、恋愛ではなく、SMです」と言い切るところ。
 この「展開」というのは、私と落花さんの、これまで私が書いてきた「展開」です。
 「みか鈴」さん、ありがとう。そのとおりです。落花さんと私が、ときおり交わしている会話、
 「みか鈴さんて、いいなあ」
 「いいわねえ。複雑微妙なSM心理が、よくわかっていらっしゃるのね」
 感じたところがありましたら、「みか鈴」さん、また書いてください。勉強させていただきます。
 ところで「羞恥心」。
 私があまりにも羞恥心にこだわるものだから、神様が憐れんで、私と落花さんとを引き合わせたのかもしれない。
 ここでまたトーンを変えますけど、落花さんという縄が好きな女性の、純粋な「羞恥心」は、私との緊縛遊戯の回数を、いくら重ねても=これまでに五十回位か=低くならないのです。衰えないのです。「純粋」というのは、ひとかけらの演技もないということです。つまり、「慣れ」というものがないのです。私にとって、毎回、新鮮なのです。毎回、初々しいのです。
 「慣れ」があると、私の場合、困るのです。縄に慣れて「羞恥心」がうすらいでくると、私は対象に対して、急速に興味を失ってしまうのです。これは私の性格で、極端に興味を失ってしまうのです。
 落花さんは、慣れるどころか、「縄」に対する羞恥心が、回を重ねるにつれて、ますます深くなっていくのです。その深さの度合いが、ふつうではないのです。ここでまた私は、私の表現力の貧しさを嘆かねばならないのですが、縛れば縛るほど彼女は初々しくなっていくのです。
 こんな人って、じつは私、はじめてなのです。この重層的な深さは、どこからくるのか?
 あれッ?今回の「おしゃべり芝居」のテーマは何でしたっけ?
 わからなくなってしまいました。いつもの迷走です。そうでした、18回の「モデルはマニアではないのか」で、落花さんが私にくれた「抗議」の手紙のことを書くつもりでした。落花さんは、「モデルはマニアではないのか」なんて、じつは言ってないのです。私の早トチリだったのです。このことについては次回に書きます。
 落花さんの私への手紙は、まだまだつづいているのです。
 埼京線を走る電車の音が、またききたくなりました。あの音はいい。欲情します。
 「彼女は、あ、あ、いけません、と小声でいいながらも、体は抵抗しない。……SMです、この展開は、恋愛ではなく、SMです」
 「みか鈴」さんは、うまいことを言うなあ。おとなだなあ。やがて三〇〇枚になるこの「おしゃべり芝居」のなかで、私は落花さんに対して、一度も「愛」とか「恋」とかの言葉を使ってないのです。私はしがない三流の売文業者ですが、そんな安直な、安易な表現はしないのです。
 「みか鈴」さんは私と落花さんのそばにいて、私たちのことを観察しているような気がしてきます。)

つづく

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