2007.11.15
 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第二十回

 しゃべっても、しゃべっても……


 前回にひきつづき、落花さん(この「落花さん」は「おしゃべり芝居」のなかに、いつも出てくる落花さんではなく、ホンモノの、つまり実在する落花さんです。ああ、やっぱり、ややこしいな、これは。読者の方、すみませんが、考えながら読んでください。私は、でき得るかぎり、事実を、事実のままに書こうとしているのです。すると、こんなふうになってしまうのです)が、私にむけて書かれた「抗議」の手紙を紹介します。
 その「抗議」というのは、ひとくちで説明すると、
 「私はあんなこと言いません、濡木先生、勝手に変なことを書かないでください」
 という内容です。そして、モデルの「羞恥心」のことについてです。さらに「羞恥心」とエロティシズムについて、話がつながっていきます。

 落花さんがFAXで送ってきた、私への手紙。
「……実際の撮影現場など、まるで知らない私ですが、昔のSMセレクトの濡木先生の撮影同行記に、杉浦先生が『今ここにいるみんなで、この世界に酔うんだ』とおっしゃっていたことが書かれています。そこに関わる人々の熱意や世界観がぶつかりあい、全ての相乗効果が素晴らしい迫力を作り上げてゆく過程を、わくわくしながら読みました。先生も含めて、皆の熱気が各々の表現を引き出して互いに高めあう、そんな凄まじい現場の空気を感じました。先生は文章の中でその撮影のことを『狂写』と書いていました。緊縛写真は現場にいる皆の想像力の産物なのだと思いました。
 もしかしたら『羞恥心がない』ように見えるモデルさんは、M女性であれ、そうでない女性であれ、知的想像力を放棄しているか、あるいはそのような表現を好む(緊縛の世界に秘めやかな『羞恥心』という感情が結びつかない)センスの持ち主なのかもしません。残念ながらステレオタイプの、露骨で薄っぺらいSM観しかもっていないのかもしれません。それは先生がお手紙でおっしゃっていたように『好み』の問題かもしれません。性的なものに限らず、もしかしたら、好きな小説や映画の趣味が私とは全く合わない方かもしれません。

 先生、以前ご一緒に観に行ったシュヴァンクマイエルの『ルナシー』のパンフレット、お手元にありますか?私は裏表紙の言葉が一番心に残っていて、今も完璧に覚えています。
 『想像力がある限り、世界は完成しない』
 とありました。濡木先生は、
 『面白いと思う映画は仕事に関係のあるものだ』
 とおっしゃっていましたが、本当にこの映画の思想は、私達のような人間にとって、真っ直ぐ心に響くものと思いました。思考を停止せずに、想像力をもち続ける限り、緊縛グラビアも、予定調和ではない、もっともっと豊かなものになるはずだと思いました。」
 (濡木注。落花さんからの手紙をこうやって書き写していて、思い出した。それは私があるときコーフンして、
 「ちかごろの緊縛写真はおもしろくない、それはモデルに羞恥心がないからだ」
 と、言いつのったことに対する彼女の返事でもある。
 緊縛写真の撮影を終えたかえり、私は落花さんに会った。そして、その日の現場の情況を話題にした。その現場のことを、ちょっとだけ、ここに書く。書かないと私がコーフンした理由がわからない。
 モデルは、どうみてもまだ二十歳前の可愛らしい女の子。小柄である。撮影が始まる寸前、スタジオの片隅で、ADが準備をしている五、六種類のバイブ、パールローター、人造ペニスを見て、その中学生みたいに可愛いモデル嬢、
 「うわァ、太いのがいっぱいある。ねえ、ちょっとためしてみていい?」
 と監督に甘えて言った。監督がおもしろがって、「うん、いいよ」と許可すると、そのモデル、うれしそうにスカートをまくりあげ、ショーツを足首までおろして、十二、三人いるスタッフの前で特大のバイブをつかむと、その先端をぺろぺろなめ、自分の股間に押しこんだのだ。
 そして、三度も、四度も、五度も、大声を出し、絶叫して、イッてしまったのだ。こんなことを書くと、現場の空気を知らない人は、ウソだろう、と思うだろう。思うのが当然である。濡木のやつ、またウソをついている。
 だが、残念なことに、悲しいことに、本当なんです。誘拐され、監禁され、さまざまな凌辱をうけるストーリーの前に嬉々としてそんなことをされてしまったら、もう縛る必要なんか、ないではありませんか。さすがの濡木痴夢男も、縄を持つ気力を失いました。でも、ドラマのなかでは、きちんとそれらしく縛りましたけどね。それが私の仕事です。
 ショックだったのは、そういう性的に爛熟した女の子が、正真正銘の「M女性」というより「縄好きマニア」だったということです。しかも、性格がとてもいい女の子だったのです。どういうふうに性格がいいかというと……いや、やめます。ここでそれを言いはじめると、長くなる。そのことは、またあとで書きます。)

 落花さんからの手紙のつづき。
「何だか書いていて、よくわからなくなってきました。どんな理由を思い描いても、私自身は実際に『モデルになる』という垣根は越えられません。私は、『横浜の貴婦人・石谷秀』さんのように、先生に『一度会ってください』とは絶対に書けません。
 モデルさんが、どんなに情感豊かな方だったとしても、意に染まない露骨な表現を求められる仕事を、しなければならないこともあるでしょう。それでも滲み出るものはあると信じていますが……。

 おしゃべり芝居のなかに登場する『落花さん』のセリフのように、
 『モデルさんはお金をもらっているんだから、それらしい表情をして、スポンサーの期待にこたえなければいけない』
 と言い切ってしまうのは、やはり乱暴な気がします。
 私が『落花さん』なら(というのは変な言い方ですが、あるいは私が好ましく思う『落花さん』ならば)『それらしい表情』という言葉を、ネガティブな『演技=つくりもの』という意味では使いません。
 私はグラビアを、カメラマンと編集者とモデルさん皆の感性と知性と熱意がぶつかりあって表現される『作品』だと思っています。モデルさんというものは、『かわいそう』だと一人だけ同情されるような、力も責任もない立場ではなく、もっと自らの表現で、その場の空気を動かすことができるほどの力をもっていると『思いたい』という気持ちが大前提としてあります。

 そして、おしゃべり芝居・第18回の、やはり『落花さん』のセリフ(みか鈴さんも疑問に思われているセリフ……)。
 『カメラマンや、編集者や、演出者や、その他のスタッフの見ている前で縛られ、それを公表されることを了承する女の人は、すべて『モデル』という名称のついた女だと落花さんはいう。縛られることが本当に好きで、そのことだけにしか快楽を感じない、真実のマニア女性は、他人の前では、自分が縛られている姿をぜったいに見せない、と落花さんはいう。縛られることは、恥ずかしいことだからである。恥ずかしいことは、他人に見せてはならない。ぜったいに秘密にしておくべきである。その秘密を守る女こそ、真実のマニアだと落花さんはいう。縛られた自分の恥ずかしい姿を、他人の前に平気でさらすような女は、SMモデルではあっても、マニアではない、と落花さんはいう』
 ……このように言い切る『落花さん』は、私も好きではありません。」
 (濡木注。そうだよなあ。本当の落花さんは『落花さん』のような、こんなケツの穴のせまいことは言わないよなあ。ホンモノの落花さんは「SM」に関して理解度が深く、したがって許容度もひろい女性です。だから『落花さん』が言ったような断定的なことは、落花さんは思ってもみないだろうなあ……。
 ですから、みか鈴さん、ご安心ください。みか鈴さんは、私の、おしゃべり芝居・18回をお読みになって、このように書かれています。

 こんどはみか鈴さんの文章です。途中から途中まで紹介させていただきますが、鋭い、いい文章です。
「……先生の文章から落花さんを見ていますので、本当は見当違いな感じ方をしているのかも知れませんけれど、お許し下さいませ、美香もマニヤですの。
 濡木先生のおっしゃるように小さな事にも拘るのです。
 ですから『恥ずかしい姿を、他人の前に平気でさらすような女は、SMモデルではあってもマニアではない』という言い方には反発を覚えます。
 『恥ずかしい姿を、他人の前に平気でさらすような女は、マニヤの精神を持ってない人が、多い』というのなら『そうかも』って思いますが、マニヤではないと線引きされると、なんとはなしに違和感を覚えるのです。

 文章に書いてある文字や言葉は抽象化された概念ですから、ホントは同じ目線であっても、抽象化されたものをどう見るのかに依って180度違う話になることがありますので、余り個人の批判のような事は書きたくはないのですが、懐の深い先生の事、そして先生が語られる素晴らしい感性をお持ちの落花さんですので、多分美香がこんな事を書いても判って頂けると思っていますから、敢えて批判めいたコメントを書かせて頂きました。」
 以上、みか鈴さんの文章を抜粋させていただきました。
 みか鈴さんの疑問もご批判もまことにごもっともで、そのとおりです、と申すよりほかはありません。
 「SMモデルはマニアではない」と言ったのは、あるいは私かもしれない。落花さんはどんなときでも決してこんな理不尽なことは言わない人ですから、口走ったのは、あるいはやっぱり私かもしれません。
 それなのに、なぜ落花さんが言ったように「おしゃべり芝居」のなかで私が書いたかというと、そういう情況がその前後にあり、理由もありますが、その理由(結局はモデルの羞恥心のなさに関してなのですが)については、今後すこしずつ書いていきたいと思っています。
 つぎにまた落花さんから私への手紙になります。
「……私自身は人前で、先生と二人きりでいるときのような姿は絶対に見せられませんが、それはただ単に、私には『人に見られたい』という欲望がない、というだけだと思っています。私は服を着ていたとしても、人前で縛られることはできませんが、それは本当に単純に『趣味』の違いであり、『そうであるべき』でもなければ、そういう人だけが『真実のマニア』だとも思いません。
 『縛られた姿を人に見られたい』という嗜好を批判する気もなければ、ましてや否定する気など全くありません。とくに私のいう『モデル』さんの場合は、私はそのような嗜好が『あってほしい』とまで思うのです。
 これは私だけの考え方かもしれませんが、私のいう『モデル』は、先生のおっしゃる『職業モデル』だけでなく、緊美研のモデルさん(商業誌のためのグラビア撮影の現場ではなく、少数のホンモノのマニア達が集まって、皆が深い信頼で結ばれているような場であっても、そのいっとき、その場は、彼女ひとりが皆の視線をあつめる『舞台』であり、やはり『モデル』だと思っています。温かい視線にかこまれた幸福な『モデル』だと思いますが、自らの感性で観客を魅了する表現者という意味で『モデル』の役割を果たす重要な人です。マニアであり、且つモデルなのだと思います)も含みます。
 そして、私がその『場』を幸せなものとして想像する場合は、モデルさんに『縛られるのが好き』なだけでなく『人に見られることが好き』という嗜好があってほしいと思っています。
 『見せたい・見てもらいたい』という嗜好がなく、本当は誰も見ていないところで縛ってもらいたいのに、そういう機会がないから、交換条件として『仕方なく』人前で願いを叶えているという想像は、少し切なく、悲しい気持ちになります。さきほど上手く説明できずに『露出趣味』という言葉を使いましたが、それは決して『露出狂』というネガティブな意味で使っているのではなく、そういう嗜好として、やはり『真実のマニア』であると私は思うのです。

 いろいろと書いてみました。みか鈴さんのコメントは、本当にそのとおりだと思います。新しくタウン誌を発行したいという注文がきて、いまその企画と準備をやらなければいけないのに、考え出すと止まらなくなって、つい長々と書いてしまいました。」
 落花さんから、つい最近私のところへきた手紙は、大体以上である(公表できない部分はもちろん書いてない)。
 彼女の文章をこうやって一字一字ペンで書き写していると、彼女の目線とか、考えていることとか、血の熱さとか、呼吸までが、はっきりと伝わってくる。
 ははあ、なるほど、と思わずうなずいたりする。自分の意見をこれだけ明確に持ち、それを文章で表現できる女性に、私ははじめて出会った。
 なかなか会えないから手紙や電話で語り合う、というのではなく、いつも会っていて、さんざんしゃべり合っているのに、その上まだこういう手紙のやりとりをしているのだ。私と彼女の手紙を合わせたら、もう単行本の一冊位は出せるかもしれない。
 「SM」に関してのあれこれについて、しゃべっても、しゃべり尽くせないのだ。私と彼女にとって、語り合うテーマはほとんど無限である。
 ラブホへ行って、縛って、キスをして、何かするだけの女性だったら、じつは私は、興味がないのである。一度や二度はおつきあいするが、長続きはしない。私もやっぱり語り合える仲間がほしいのである。私も孤独なのである。

つづく

濡木痴夢男へのお便りはこちら

TOP | 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 | プロフィル | 作品リスト | 掲示板リンク

copyright2007 (C) Chimuo NUREKI All Right Reserved.
サイト内の画像及び文章等の無断転載を固く禁じます。