濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第百九十二回
豊饒無限の写真集「夕日の部屋」
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「マニア倶楽部」2012年3月号に、この写真集「夕日の部屋」を出した趣旨を、中原館長が、わかりやすい文章で書いている。その中に、
「作りものを本気で作りたい」
という一行がある。
じつは、いまさら私たちがこのような趣旨を掲げなくても、緊縛写真に熱い関心をもつマニアの心の中には、ずうーッと以前から、この気持ちはあったものである。
中原館長の説明文に、私がよけいな言葉を加えれば、
「私たちが見たいと思う作りものの緊縛写真を、本気で作ろうと思い、そして本当に好きな人間だけが集まって作った写真集」
ということであろう。
そのへんの気持ちを、すこしばかり具体的にのべてみたい。
こころみに、いま手もとにある雑誌を一冊取りあげてみる。
セーラー服を着た美しいモデル嬢が、戸外で後ろ手に縛られているカラー写真。
明かるくきれいに可愛らしく撮れている。
まさしくこれは「作りもの」である。「作りもの」以外の何物でもない。
可愛らしくメイクした若い女の子が、縄で縛られて、つめたそうな戸外で、ポッテリした顔でおとなしくうずくまっている。
おびえたような表情も、逃げだそうとする気配も、まったくない。
なんの感情もなければドラマ性もない。
撮るほうも撮られるほうも、なんの摩擦もない、何もかも納得づくの「作りもの」にきまっている。
ですがね、「作りもの」にはちがいないけど、この「作りもの」は、私たち緊縛写真愛好グループ「ともしび」にとっては、まったく魅力のない、縁のない、しらじらしい、つまらない「作りもの」なのですよ。
私たちのいう「作りもの」とは、すこしばかり(いや、大いに)意味がちがうものなのですよ。
このセーラー服少女の写真は、これを撮ったカメラマン、そして撮らせたディレクターが、読者にむかって、
「どうだ、こんな可愛い女の子が、赤いスカーフをつけたセーラー服を着せられ、縛られて外へ引き出されている、かわいそうだろう、凄いだろう、感じるだろう、これがSM写真だぞ」
と言っている。
その姿勢が、ミエミエなのです。
(私は、そして多くの緊縛マニアたちは、そのミエミエの態度が、大嫌いなのです。私たちマニアには、マニアとしてのプライドがあります。選ばれし者というそのプライドが、傷つけられたような気持ちにさえなります。カメラマンや編集者の意図とは逆に、シラケます)
なぜ見え見えなのか。
それは、この美少女の、たとえ作りものにせよ、こういうせつない状況におかれた「心」が、まったく表現されていないからです。
カメラマンもディレクターも、「形」だけしか撮ろうとしてないからです。
モデルの少女の表情も、ポーズも、そして縄のかけ方も、みごとなくらい「形」だけの空疎なものです。
形だけを見せれば、マニアはよろこぶとでも思っているのでしょうか。
(え、なんですって? カメラマンの目には形だけしか映らないのだよ、ですって? まさか!)
緊縛写真とは、縛られた美少女の「形」だけを撮ればいいというものではないのですよ。
(あーあ、私もしつこい。しつこい分だけ、私は怒っているのですよ)
乱暴に言ってしまえば、「形」よりも「心」のほうに、私たちマニアは感動するのですよ。
(考えてみれば、この「おしゃべり芝居」に二回つづけて書き、それでも書ききれなかった「下北の弥太郎」は、十日も前に見た縄も縛りも出てこない芝居だけど、「心」があったからこそ、私も中原館長も感動し、その感動がまだ消えずにブスブスいぶっているのだ)
こういう緊縛写真を制作するカメラマンとかディレクターは、結局、私たちマニアを「上から目線」で見ているからだと思うのですよ。すくなくとも、
「こういう写真を撮れば、マニアはよろこぶにちがいない」
と思いこんでいるのでしょう。
撮影現場では、モデルにむかって、ああしろ、こうしろ、こういう顔をしろと、のべつまくなしに指示し、カメラマンのつごうのいいような主観で撮っているのでしょう。
職業カメラマンが、あっちむけ、こっちむけ、苦しそうな顔をしろ、と命令するたびに、モデルの表情からも姿体からも、縛られた女のいちばん魅力的な、官能的な、おもしろいSMの味が消えていくのです。
出がらしの番茶を飲まされて、だれが「ああ、おいしい」と言いますかね。
この、外で縛られてうずくまっているセーラー服の美少女の写真は、これはこれで「作られたもの」にはちがいないのですが、私たち「ともしび」でいう「作りもの」ではないのです。
私たちが考えている「作りもの」とは、「似て非なるもの」と言わざるを得ないのです。
え? はい、はい。
わかりました。いつのまにか話が、わき道にそれてしまいました。
私たち「ともしび」の第一冊目の写真集のことを書きはじめたのでした。
でも、あれこれよけいなおしゃべりをしたおかげで、「夕日の部屋」の緊縛写真が、そういう「作りもの」ではないということが、具体的におわかりになったと思います。
内容はすでにこの「おしゃべり芝居」の中で、数回にわたってのべてきました。
かんたんな物語で構成されています。
山之内カメラマンは、私に縛られた早乙女宏美に対して、表情とかポーズの指示など、ひとことも発しませんでした。
撮影がはじまる前から、早乙女はヒロインになりきっていました。
シャッターを押す寸前の指示や注文が、いかに被虐の雰囲気をこわすか、山之内カメラマンはよく知っていました。
いけなかったのは、私つまり濡木でした。
これまでの撮影のくせが出て、よけいなことを言ったり、カメラを意識した、へたな「作りもの」めいた無駄な動きを、ついしてしまうのです。
そのたびに、中原館長の遠慮のない鋭い注意の声がとびました。
はじめのうちは撮影現場の進行係だった中原館長の役目が、いつのまにか、先鋭的な演出者になっていました。
その注意も指示も的確で、納得できるものばかりなので、従わないわけにはいきません。
彼女の指示どおりに、カメラマンも早乙女も従うようになりました。
というより、私たちは撮影以前に何度も会って話し合い、この写真集の目的や狙いを話し合っています。
いま改めて確認し合わなくても、四人が目的とするところは、はじめから一致しているのでした。
中身については、これ以上ぐだぐだと説明するのをやめましょう。
市販されているこの種の写真集にくらべると(いや、くらべてはいけないのだろう、まったく異質の写真集です)見かけはうすっぺらで貧弱かもしれないが、内容はどうしてどうして、ずっしりと趣きのある珠玉の緊縛写真ばかりです。
念のため断っておきますが、モデルは最後まで着衣のままです。
裸にして、下半身をM字型にして異物を挿入するような写真は、一枚もありません。その気配もありません。肌の露出度ゼロです。
そして、縄の遊びを思わせるような、模様めいた縛り方は一切していません。女はきわめてラフな、リアルなきびしさで縛られています。
一般的な、常識的なエロティシズムを好まれる人には、まったく興味がわかないように作られている写真集です。
この「夕日の部屋」は、幅の広い豊饒な妄想力を有する方に限り、底知れぬ深淵の快楽を味わうことができるでしょう。
ほとんどが暗いトーンの色彩の中に、一人の女が縛られ、あえいでいます。
この女は、あなただけのものです。女のそばに男が一人見えかくれしますが、それは物語の便宜上、私(濡木)が出ていますけど、本当はあなたです。
柱に縛りつけられた女が、手拭いによる厳重な猿轡に呻き、もだえています。
せつなく荒い息遣いが、写真から噴き出します。
このときの女の苦悶は「作りもの」以上でした。「作りもの」を超越したリアリズムを感じさせて、戦慄的な写真となりました。
二重三重の猿轡をされる直前に、女の口の中には、白い布きれのつめものがいっぱいつめこまれています。
そうしろ、と私に命じた中原館長が凄い。
苦しげに喉を鳴らしながら耐えぬいた早乙女も凄い。
それを沈着冷静に撮った山之内カメラマンも凄い。
この猿轡の写真を、編集する前に一枚だけ、エル・ボンデージ氏に見せたところ、手に取ってしばらく凝視してから、
「わいせつだ、わいせつだ、こんなわいせつな写真、見たことがない!」
うなり声を発したこの画家の表情も、凄いものでした。
(つづく)
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